「今日は怒られます」と言われて始まった導入事例取材
今回は、少し昔の導入事例取材の話です。
導入事例の取材は、導入先に話を聞き、記事として整理していく仕事です。けれど、現場に行けば、事前に用意した質問どおりに進むとは限りません。導入の話を聞くはずが、まったく違う話になっていくこともあります。
その日も、そういう取材でした。
取材としては、できれば二度と経験したくない部類です。ただ、あの場で見たライターさんの勇気は、今でも忘れられません。
なお、企業名や製品名は伏せ、登場人物や経緯の一部も公開にあたって少し調整しています。

導入事例の取材に向かう前に、クライアントから謝られたことがある。
「本当に申し訳ありません。今日は、たぶん怒られます」
朝のカフェだった。
本来の集合時間より、一時間以上早く呼び出されていた。こちらは、私とライターさん。たしかカメラマンも一緒だったと思う。そこで、クライアントの担当者が深々と頭を下げた。
「今日の取材は、かなり厳しい場になると思います。正直、取材にならないかもしれません」
導入事例の取材現場にはかなり多く立ち会ってきたが、取材前にこんなことを言われたのは初めてだった。
導入事例は、基本的には成功した話を聞きに行く仕事だ。
導入前にどんな課題があり、なぜその製品やサービスを選び、導入後にどんな変化があったのか。それを取材し、読み手に伝わる形にまとめていく。
もちろん、毎回すべてが予定どおりに進むわけではない。
話が想定より広がらないこともある。事前に聞いていた内容と、現場の温度感が違うこともある。導入直後で、まだ効果が出きっていない段階の取材もある。
それでも、取材前に「今日は怒られます」と謝られることは、さすがにない。
事前に聞いていた内容だけで言えば、特別に難しい案件には見えなかった。質問案のクライアント確認も終わっている。通常であれば、あとは取材で、話を聞きながら必要なところを深掘りしていけばいい。
それなのに、取材直前になって「今日は取材にならないかもしれません」と言われている。
正直、意味がわからなかった。
導入事例の取材が、必ずしも完璧に成功した案件だけで行われるわけではない。契約や導入時の条件として、事例取材が含まれていることもある。
ただ、実際にうまく動いていないのであれば、普通は提供側の企業がいったん止める。公開できる状態ではないと判断して、時期をずらすか、取材そのものを見送ることが多い。
ところが今回は、どうも違っていた。
取材先の企業側が、あえてこのまま進めると言っているらしい。しかも、成功を語るためではない。どうやら、この取材の席で導入先に文句を言いたいようだった。
これは、かなりやばい取材になるなと思った。
ただ、行かないわけにもいかない。
取材は決まっている。先方も待っている。
「なんとかお願いします」
そう言われて、こちらも「分かりました」と言うしかなかった。
取材先は、誰もが名前を知っているような大きな会社だった。
会議室に入ると、中央に導入を主導した責任者の方が座っていた。その両隣に部長クラスの方々。さらに、導入プロジェクトに関わったスタッフの方々が数名。
全体で六、七人はいただろうか。会議室に入った瞬間、正直「うわ、人が多いな」と思った。
こちらが聞き手として進行するというより、向こう側がすでに一つのチームになって待ち構えているような感じだった。
それでも、いつもどおり始めるしかない。
会社の概要を確認し、導入前の課題を聞き、製品選定の話に入っていく。すると、その責任者の方が、少しずつ語り始めた。
「この製品を選んだのは、私なんです」
そこから、会議室の空気が変わった。
社内には、別の選択肢を推す声もあったという。特に若いメンバーの中には、別の製品を評価する人もいた。けれど、その責任者の方は、サポート体制やトラブル時の対応、長く使っていくうえでの安心感を重視して、今回のソリューションを強く推した。
自分が責任を持って、社内を説得した。
その判断に、周囲も最終的には納得した。
だからこそ、導入が決まった。
ところが、実際には期待どおりに動いていない。
「正直、今もきちんと動いていないんです」
「本当に困っているんです」
「私の立場も、かなり厳しくなっている」
「若い人たちにも、申し訳ないことをしたと思っている」・・・
怒鳴るような言い方ではなかった。
ただ、怒りと嘆きが混ざっていた。
責めたいというより、聞いてほしい。自分がどういう思いで選んだのか。社内でどれだけ説得してきたのか。それなのに、今どれだけ困っているのか。
取材というより、半分は切実な訴えに近かった。
当然、会議室の空気は固まる。
周りの方々も発言できない。クライアントの担当者も、ほとんど気配を消している。こちらも、用意していた質問をそのまま出せる状況ではなかった。
「・・では、導入後の効果を教えてください」そんなことを言える空気ではない。
言った瞬間に、何かが終わる気がした。
ディレクターは、現場を調整することも仕事のひとつだ。
ライターさんが考える時間をつくる。話が止まったときにフォローをいれる。足りない質問を入れる。話が横にそれたら、自然に本筋へ戻す。
普段なら、そういうことも意識して取材に入っている。
ただ、そのときは正直、私も何もできなかった。
会議室が静かになった。誰も、次の言葉を出せなかった。
その沈黙の中で、ライターさんが少しだけ姿勢を変えた。
たぶん、なんとかこの空気を和ませなければと思ったのだと思う。
そして次の瞬間、一言を放った。
いわゆる、一発ギャグである。
内容まで覚えていれば、ここで披露したかった。ただ、もう十年以上前の話で、さすがに思い出せない。少し残念だ。

私は一瞬、何が起きたのか分からなかった。
「えっ?」
「今、何と言った?」
心の中でそんな言葉が出ていた。大きな地震を食らったくらいビックリした。
もちろん、笑いは取れなかった。
会議室は、さらに静かになった。
人生で見た中でも、かなり上位に入るスベり方だったと思う。芸人だったら、しばらく立ち直れないかもしれない。
ただ、その一方で、私は強く感心していた。
あの場で、あれを言えるのか。
私には無理だった。
少なくとも、あの瞬間の私にはできなかった。
怒りと嘆きが充満している会議室で、全員が固まっている。その中で、ライターさんは一人で踏み込んだ。成功する保証なんて、どこにもない。むしろ、失敗する可能性のほうが高かったと思う。
実際、その場では見事にスベった。
それでも、踏み込んだ。
崖の端に立って、止まりかけた空気を動かすために、そのまま飛び込んだようなものだった。
責任者の方も、あまりのスベりっぷりに、少し我に返ったのかもしれない。
それまで張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。怒りや嘆きの熱が、その一言で一度途切れたように見えた。
「ああ、すみません。ちょっと言いすぎましたね」
そんな感じで、責任者の方の表情も少しだけ和らいだ。
あの一発ギャグの見事なまでの不時着によって、全員が一瞬だけ現実に戻った。
そこから、ようやく取材は少しずつ動き始めた。
とはいえ、急に成功談になるわけではない。
まずは、その方の話を受け止める必要があった。
何にいちばん困っているのか。
どこが問題で、何が止まっているのか。
それでも、評価できる部分はどこなのか。
一つずつ聞いていくと、記事にできる話も少しずつ出てきた。
たとえば、問題が起きたときの対応体制。システムをブラックボックスにしない考え方。長く使っていくうえでの安心感。導入後の課題は残っているものの、選定時に重視したポイントそのものは、確かにそこにあった。
そうして話を拾っていくうちに、取材はなんとか終わった。
普通に考えれば、その事例は記事にならないと思う。
取材現場では、導入先の責任者がかなり厳しい話をしていた。製品への不満も出た。社内での立場の難しさも語られた。会議室の空気は、決して明るいものではなかった。
それでも、最終的には記事として形になった。
出来上がった記事を読むと、あの現場から生まれたとは思えないくらい、きちんとした事例になっていた。
導入の経緯も、評価していた点も、読み手に伝えるべきところがちゃんと整理されていた。
もちろん、現場で出た厳しい言葉をそのまま載せるわけではない。
ただ、都合のいい成功談に作り替えたわけでもない。
混乱した話の中から、記事として成立する価値を拾い上げた。それが、きちんと導入事例になっていた。
後日、私はそのライターさんに謝った。
あの場で助け舟を出せず、申し訳なかったと。
ただ、あの一言がなければ、取材は本当に止まっていたかもしれない。少なくとも、私はそう思っている。
その後、クライアントの担当者から飲みに誘われた。
お詫びと慰労を兼ねたような席だったと思う。あの取材は、クライアント側にとっても相当きついものだったはずだ。
その席で、あのライターさんの一言が話題になった。
ライターさん本人は、「あれは失敗したと思いました」と話していた。
でも、クライアントの担当者は違う見方をしていた。
「あの場で、あれを言えるのはすごい」
「自分には絶対にできなかった」
「あれで空気が少し変わったと思います」
そんなふうに、かなり褒めていた。
大変な取材だった。
それでも、あの現場を一緒に越えてから、クライアントとの関係はむしろ強くなった気がする。
導入事例は、成功談を整えるだけの仕事ではない。
ときには、怒りや嘆きや責任の重さが、取材の場にそのまま出てくることがある。予定していた質問票が、ほとんど役に立たなくなることもある。
それでも、そこに何もないわけではない。
その人がなぜ選んだのか。
何を期待していたのか。
どこに価値を見ていたのか。
それでも、何を信じようとしていたのか。
そこまで聞けたとき、たとえ予定とは違う取材でも、記事にできるものが見えてくる。
あの日も、事例はちゃんとできた。
でも、もう一度やりたいかと言われると、正直、二度とごめんだ。
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