「AIが嫌い」と言った友人の違和感は、たぶん正しい

「AIが嫌い」と言った友人の違和感は、たぶん正しい

「聞いていないことまで進めるAI」への違和感

先日、友人と飲んでいるときに、ふとAIの話になりました。

その友人は、普段ほとんどAIを触っていません。仕事で本格的に使っているわけでもなく、少し距離を置いて眺めている側の人です。話の流れで最近のAIについて聞かれたので、エージェント型AIの話をしていました。

すると、ぽつりとこう言いました。

AIって、あまり好きじゃないんだよね。聞いていないことまで、どんどん話を進めるから。

その一言は、聞き流せませんでした。

私自身は、仕事でAIをそれなりに使っています。便利だし、助かる場面も多い。だから、AIに対する漠然とした反発のようなものには、内心、距離を置きたい気持ちもあります。それでも、この一言には、すぐに返す言葉が出てきませんでした。

間違えるから嫌だ、冷たいから嫌だ、という類の話ではない。こちらが聞いたことに答えるだけならまだいい。けれど、聞いてもいないところまで先回りされると、自分の手から何かを取られていくような感覚が残る。たぶん、そういう種類の違和感なのだと思います。

そして、その感覚はかなり本質を突いていました。

少し前までのAIは、「答えるAI」でした。質問を投げれば、文章を書き、要約し、構成案を返してくる。便利ではあっても、あくまで人間の作業を補助する立ち位置です。人が考え、段取りを組み、手を動かす。必要なときにだけ、AIを呼ぶ。そういう関係でした。

ところが、最近のエージェント型AIを使っていると、その関係がじわじわと崩れてきています。

AIはもう、聞かれたことに答えるだけでは収まりません。資料を整理し、文章を下書きし、複数の案を出し、修正し、比較し、画像やコードやファイルにまで手を伸ばす。「答えを返す道具」から、「作業工程そのものを進める存在」へと、立ち位置が動いている。

単に便利になったという話ではない。仕事の進め方そのものが、根っこのところで揺れ始めています。

いまのAIが強いのは、何度でも試せること

AIの強さは、一つひとつの出力が常に完璧であることではありません。そこだけを見れば、まだズレることも多い。文脈を外したり、整っているけれど何かが違う、というものを平気で出してきたりする。

強く感じるのは、賢さそのものよりも、試行回数の多さです。

一つの案が外れていても、十案、百案と出せる。表現を変え、構成を変え、見せ方を変えながら、短時間で大量に試せる。人間相手なら遠慮するような細かい修正でも、AIにはいくらでも投げられる。納期、費用、関係性、疲労。仕事を縛ってきた現実的な制約が、ここではかなり薄くなります。

ある程度の領域では、数の暴力によって、一定のクオリティは担保されてしまう。

これは、人間にとって、けっこう重い変化です。

これまで多くの仕事では、「作れること」そのものに価値がありました。文章を書ける、デザインできる、構成を組める、資料をまとめられる、コードを書ける。もちろん、そうした能力が一夜にして無価値になるわけではありません。

ただ、「作る」という行為のコストは、AIによってどんどん下がってきています。

特に大きく揺らぐのは、平均点の仕事です。

世の中の多くの仕事は、突き抜けた創造性よりも、外さないこと、整っていること、分かりやすいこと、一定の品質で量をこなせること。そういう条件で成立してきました。そこは、AIが特に強い領域でもある。

だから、いま起きているのは、「AIが人間の創造性を奪う」という単純な話ではない。

これまで創造性や知的作業と呼ばれてきたものの中から、純粋な作業の部分だけが先に切り離されて、AI側に持っていかれている。そういう見方のほうが、実感としては近い。

仕事の重心は、「作る」から「選ぶ」へ

考えること、調べること、作ること、直すこと、整えること、比べること。これまで一つの仕事の中にひとまとめに混ざっていたものが、AIによって少しずつ分解されていく。

そうなると、人間に求められるものも変わっていきます。

仕事の重心は、「作る」から「選ぶ」へ、ゆっくりと移っていく。

ここでいう「選ぶ」は、好きなものを選ぶという意味ではありません。大量に出てきたものに対して、どれを価値あるものとして扱うかを決める作業です。

どの案を残すのか。どこに違和感があるのか。何を主役にして、どこまで説明するのか。何を削り、何を残すのか。

AIは、大量に作れます。けれど、出てきたものの中から何を「良い」と判断するのかは、いまのところまだ人間の側に残されています。そして、この判断は、単なる好みではない。その人がこれまで何を見てきたか、何に失敗してきたか、どんな仕事を重ねてきたか。そういうものが、判断の輪郭をかたちづくっています。

ここで効いてくるのが、作るコストが下がっても、判断のコストまで一緒に下がるわけではない、という点です。

むしろ、候補が増えるほど、判断は難しくなる。AIが十案、百案と出してくる時代には、「作れます」だけでは足りない。なぜこの案を残し、なぜこちらを捨てるのか。それを自分の言葉で説明できなければ、選んだことにはなりません。

作業の量がAIによって増幅されるほど、人間の側には、よりはっきりした判断軸が求められる。そこに、これからの仕事の難しさがあります。

では、人間には何が残るのか。

たぶん、それは「価値を見出すこと」です。

何が美しいのか。何を残したいのか。何に怒るのか。何を見過ごしてはいけないと感じるのか。

そこに、これからの人間の仕事の核が残るのではないかと思います。

主導権をどこに置くのか

ただし、「経験があるから人間は安泰だ」とは言い切れません。

AIは今後、過去の事例や失敗パターン、ユーザーの反応、時代ごとの空気のようなものまで、もっと深く学習していくはずです。人間の経験に近いものを扱う力も、確実に上がっていく。

だから、人間の経験そのものを聖域にしてしまうのは、少し危ない気もします。

それでも、同じ経験から何を拾い上げるかは、人によって違う。同じ失敗をしても、何を痛みとして覚え、何を次に持ち越すかは違う。同じ時代を生きていても、何に違和感を覚えるかは同じではない。

価値判断は、知識だけで生まれるものではありません。何度も判断し、外し、また直してきた中で、その人の手元にだけ残ってきた感覚があります。それが、見る目になっていく。

そして人間には、時間と身体の制約があります。疲れるし、傷つくし、取り返しのつかないこともある。どの選択にも、どこかしら一回性がついて回ります。

その制約は、確かに弱さでもある。けれど同時に、価値判断に重みを与えている背景でもあるのだと思います。

友人が言っていた「聞いていないことまで進められるのが嫌だ」という感覚は、ただAIへの反発というだけではない。そこにあるのは、おそらく主導権の話です。

便利になるほど、どこまで任せるのかを決めなければならない。速くなるほど、どこで止めるのかを考えなければならない。大量に出てくるほど、何を残すのかが問われる。

AIが作業を進める時代に、人間に残るのは、作業そのものではなく、その主導権をどこに置くか、という問いなのかもしれません。

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kageyama